大崎上島櫂伝馬のルーツ・備中船手の中の大崎衆
かつて、大崎上島の先祖は中世室町時代海に生き、小早川水軍の「備中船手衆」の中で「大崎衆」としてその名を知られていました。小早川氏古文書の文禄4年(1595)8月の頃に小早川水軍の将、忠海賀儀城主・乃美(浦)宗勝率いる備中船手衆の中に、大崎衆として次の名が見られます。『土倉(はぐら)源右衛門」(沖浦葛城主)・有田善右衛門(大崎東広代官)・金山清兵衛(大崎中庄代官)・田坂庄兵衛(大崎西庄代官)』が名を連ねています。夫々の配下に島内のどんな人たちがいたのでしょうか。
小早川氏の古文書にみられる大崎衆の顕著な功績
弘治元年(1555年)9月末、毛利元就と周防の陶晴賢(すえはるかた)との厳島合戦に先立つ、天文24年(1555年)、厳島に築いた宮ノ尾城の防備を検分するため、大野から乗船した元就の船に陶軍の攻撃を受けました。金山次郎五郎らは疾航救援して激戦の末、敵将桑原掃部助(かもんのすけ)以下主立った将兵を討ち取り、元就は無事厳島に上陸しました。
討ち取った陶軍の首は宮ノ尾城の城外にかけ並べて味方の将兵を激励したといわれています。このとき、救援に参戦し活躍した将兵に対して、小早川隆景により感謝状が贈られています。
天生3年(1675)正月、小早川水軍の海将乃美(浦)宗勝に宛てた小早川隆景の書状「大崎衆が早く備中へのぼってくるように早船をもって仰がせるべく」と書き送っています。(注:備中とは当時小早川隆景が備中守であったことによります。)
この書状は、恐らく年代的に見て石山本願寺合戦の折、毛利軍が籠城する顕如上人以下一向宗の信徒に対し安芸門徒と共に、村上水軍の護衛のもとに救援物資を送るために大崎衆の水軍力が必要であったものと思われます。
神振の模様
社頭で祭典を終え、神輿は、氏神祭と同じ行装で陸路、盛谷、白水を経て、夕刻にお旅所の矢弓港厳島神社に到着し、海上よりの櫂伝馬と御座船を待ちます。
海上では、御本船、および御供船は陸上の神幸に連れて、櫂伝馬曳かれつつ、盛谷、白水を経て矢弓港に夕刻までに到着します。この間、櫂伝馬船は、各区沖で勇壮なる競漕を行いました。
夕闇迫る頃、お旅所の祭典を終えた神輿は、御本船に遷御し、御供船を従えて櫂伝馬に曳かれて還御します。
海岸では、麦わらを積み御燈明として焼き、その炎は天をこがし、御本船、および、御供船の紅提灯とともに不夜城の観を呈し、海岸すれすれに漕がれる御本船、および、御供船より奏する楽の音、お囃子は古今ゆかしく海に流れつつ御環したものです。