住吉神社と古社八幡神社
古江の磯田に鎮座されていた住吉神社は、旧東野村の船待ちによって大阪の住吉大社から御神霊を迎え、文政10年(1827年)に創建されました。祭礼の費用や神社の維持費は「住吉祭銀帆反懸」といって廻船の帆一反につき銀一分をおさめて賄われていました。
明治政府の神社統合令によって、明治43年(1910年)に古社八幡神社に合祀されましたが、伝統ある海の祭典「櫂伝馬競漕」はその後も絶えることなく受け継がれ、今日も盛大に行われています。
前述したように、住吉神社は古社八幡神社に合祀されましたが、住吉神社の遺構は今現在も残り、「狛犬・灯籠」は古社八幡神社の表参道一の鳥居の傍らに、「玉垣」は白水の正光坊の玉垣に移設され健在です。この玉垣には、かつて廻船で栄えていた頃に、寄進した船待ちの船名や船頭の名が刻まれています。
「社殿」は沖浦の恵美須神社としてその歴史を伝えています。古江の磯田には、神社の旧跡を示す標柱がたてられているものの、昔日の風情を忍ぶものは、何も残っていません。
銅製の軍馬が設置されていましたが、戦争中、金物を供出しなければならなくなり、現在は拝殿横で台座だけが残されています。
屋根を葺き替える前の古社八幡神社
住吉祭のはじまり
住吉神社は、摂津の国住吉大神を勧請して、文政七年(1824年)より古江の海岸に社地を築き、普請を起こして文政10年(1827)に完成しました。しかしながら、白水区に住吉祭の船燈箱(文政8年のもの)が現存していることから、住吉祭は、神社完成以前に行われていた可能性があるとする見方もあります。矢弓にある厳島神社は、延享2年(1745年)に勧請されていますので、それ以上の古い歴史があるとの見方もありますが、はっきりしたことは明らかになっていません。櫂伝馬競漕については、住吉祭の主にたる行事ではなかったということだけはわかっています。
船燈箱(文政8年)
池田勇人大蔵大臣によって寄贈された優勝旗。
木江厳島神社・十七夜祭り
厳島神社・貞勧(じょうかん)3年(861)勧請(かんじょう)と伝えられています。古くは厳島明神鎮座の御幸の際立ち寄られたとの故事があります。また、平安時代の安芸国神名帳に「木上明神」の記載があり、下って文亀2年(1502)改修の記録の残る古社です。旧暦6月17日(十七夜祭)の祭礼は、宮島の厳島神社の管弦祭(かんげんさい)と共に木江の伝統行事です。この時行われる「櫂伝馬競漕」については確たる歴史資料は残されていませんが、祭りの中心的な行事として伝承されてきました。
沖浦恵美須神社祭礼
創建・宝永(ほうえい)2年(1705)勧請(かんじょう)、別説・宝永7年
通説・天分(てんぶん)年間(1532-1535)
明治43年(1910)明治政府の神社整理令(俗に古老は神寄せという)により、東野村古江の住吉神社が古社八幡神社に合祀され神社が不要になったため、これを購入し移築、沖浦の鎮守神恵美須神社として再建しました。
移築に際しては本殿はそのまま、船に積み、その他は解体して積込み「櫂伝馬」で沖浦まで帰ったといわれています。現存する境内東側の鳥居(嘉永(かえい)2年・1849)はこの時移設したもので扁額(へんがく)のみ「恵美須神社」として掛額しています。
祭礼は10月10日で継承されていましたが、東京オリンピック開催後、記念して「体育の日」が制定され、是れに呼応して町民大会が開催されるようになり、祭礼は10月の第1日曜日とされ今日に及んでいます。櫂伝馬競漕の歴史は「大崎南村村誌」を見ると、慶応2年(1866)を起源とするとありますが具体的な内容は記載されていません。